ダンシング・ヴァニティ/筒井康隆 ― 2008/03/25
困ったのだ。一読するのは容易だったが、再読するのがなかなか難しく、時系列と変位を縦軸と横軸にとって見据え、内容を理解しなければならない。厄介な小説なのだ。
筒井さんが紡ぎだすこの小説は、確かに物語原型はあるのだが、その異化形態まで繰り返し記述され、その繰り返し部分を次の繰り返しのどこと結びつけるのかを考えなが読むと、読む我等は確実に追い詰められる。読者を追い詰めるのである。
ただ、この小説がテーマを次々に変奏してゆくジャズ的なもの、として捉えると、突然この小説の世界が心地よく、揺蕩う世界となる。テキストの悦楽だけを捕らえるのではなく、その変奏の悦楽をも我等の心の涵養となる。
「筒井康隆は終わった」などという向きもあるが、私の見方は違う。昔の自作の再生産などと言う向きもある。例えば「東海道戦争」と「歌と饒舌の戦記」の表層を捉えると、近似のものだとも言えるだろう。しかし、後者はある意味では「完成」を見たものなのだ。前者が「未完」であるが故に評価されるのであれば、後者が「完成」しているが故に貶められるのは、読者である我等の身勝手であろう。「未完」には正対することはできるが「完成」に正対するにはまだまだケツが青いのである。
巨船べラス・レトラス ― 2007/04/20
筒井康隆さんの問題作である。何が問題かと言えば、現代日本の文学の問題、いや文壇というものの問題なのか。
メタ世界に存在する巨船べラス・レトラスに乗り込むのは、多くは文学者であり、現実世界でのべラス・レトラスは先進性と実験性こそを強く奉じる雑誌である。しかし、現実には先進性や実験性が強ければ強いほど、商業誌としての命脈は尽きようとしてしまう。しかも、作品を掲載している作家自身が、過剰な実験性や先進性を求められるが故に疲弊し、作品が空転してしまう。それが商業誌としての売り上げを更に押し下げてしまう。
雑誌「べラス・レトラス」を主催するのは文学好きのIT企業家ということになっている。多分、記されている見かけの姿は違うが、筒井さんが断筆中に「断筆祭り」という催しがあったわけだが、そのスポンサーとなったあの人がモデルだろうと思う。筒井さんに会社の出版部門を譲ろうともしたと聞く。根っからのツツイストである。
この作品に記載されている、やや露悪的とも思える部分も、実は日本文壇に対する真摯なオマージュと読めるのである。
愛情がなければ悪罵も起きぬ。ただ無視するだけである。
ちなみに、吾妻ひでおの「うつうつひでお日記」にも、この作品が登場する。雑誌文学界に連載されていた当時から読んでいたとも記されている。
口語訳古事記 ― 2005/05/20
口語訳古事記というものが文藝春秋社から発刊されたのは2002年の事だ。文藝春秋社の創立八十周年を記念してのものとの事である。
神話世界というのは、物語原形の宝庫であり、語り部による脚色が時代を経て行われた集積でもある。ただ、日本の神話を描いたもう一冊である日本書紀とは、その内容に違いがある。そこに、文字として残されたであろう時期の、政治体制や社会情勢を色濃く反映しているのだ、と読み解くのは深読みのしすぎか。 古事記も日本書紀も欽定神話という色彩が強いのだが、天津神が外来の騎馬民族、国津神がそれ以前に日本列島に住んでいた存在、というような単純な分別が正しいのかどうかは分からない。
因幡の白兎などの逸話は、イソップ童話と同等の寓意が込められており、大国主命が支配する神、支配される側の兎、ワニ鮫などの姿が、実は支配される庶民という構図があるように見える。嘘をつく兎を罰する神、嘘を反省した兎を許す大国主命というこのテーマは、より人間に近い、つまり庶民側に立った国津神である大国主命の姿に救済を求める庶民の願いも含まれているのではないのか。
歴史は勝者が書き換えるのが常であるが、稀にこうした敗者のささやかな抵抗のような逸話も、寓意を含むことで残されるのではないか。こうした寓話の中に、実は庶民生活が垣間見える気がするのだが。
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